南予ノ古城 


文章ハ南豫史ヨリ


地名ハ大正時代ノ地名ユエ、平成ノ今トシテハ違フ事ヲココロヘルベシ
トリアヘズ、便宜ヲ図リ、昭和ノ地名ヲ明記スル。

南久米村=宇和町・大洲市 久米村=大洲市、喜多村=大洲市

瀧川村(たきかわ)=長浜町、喜多山村(きたやま)=大洲市、

宇津村(うず)=大洲市、久米村=大洲市、

相生村=長浜町、柳沢村=大洲市、大成村=大洲市、

喜多村=大洲市、出海村=長浜町、田処村(田所)=大洲市、

蔵川村=大洲市、粟津村=大洲市、上須戒村(かみすがい)=大洲市、

言い訳・長い期間かかって作ったため、幅がそれぞれ違うが許してたもれ

大洲城 大洲市 古くは比志城または地蔵ヶ嶽城ともいう。
鳥坂城 南久米村 久保にあり、陣ヶ森と称い宇都宮西園寺境目論争の時築き河野の将村上河内守吉継の古墟なり。
正信城 南久米村 正信にあり、この村昔は宇和郡古谷氏の所領にて千葉氏の古墟
亀ヶ森城 南久米村 黒木にあり、宇都宮朝綱の属城なり野佐来村に奥方屋敷という処有り朝綱夫人の舘跡なり。
松ノ森城 南久米村 松尾にあり、天文の頃松浦左衛門佐の居城となり後寺尾豊前守に属す。

鴾の森城 南久米村 北只に在り、土岐ヶ森城と云い土岐伯耆守の古墟なり。
池上城 南久米村 桑野に在り、往田城とも云う、往田主税の古墟なり其の子孫当村の庄屋となる。
八幡城 久米村 阿蔵に在り、兵頭主計頭の古墟なり。
鍛冶谷城 久米村 阿蔵に在り、鍛冶谷中務居る後佐久間安房守城主の時大野上総介直之縷々攻むると雖も毎に敗れ退く、計略を以て不意を攻め、城に火をかけたれば城兵力尽き安房も自殺す。八幡城主兵頭主計頭之を見て亦城を捨てて落去すれば元親此の両城を直之に与う。
尾中城 久米村 阿蔵に在り、大津賀石見守政通嫡子政勝居る、其の位牌大洲村大禅寺に在り。

笹ヶ森城 久米村 多田越に在り、城主詳かならず。
豊ヶ森城 久米村 大洲に在り、鎌田甚六の古墟なり
岡崎城 喜多村 五郎に在り、岡崎紀伊守の古墟なり
玉川城 喜多村 五郎に在り、宇都宮左近蔵人清綱の古墟なり。
烏森城 喜多村 五郎に在り、姓不詳内蔵助の古墟なり。

蜂の森城 喜多村 市木に在り、一木左馬之介直則の古墟なり。その子太郎直盛河野の湯月本城へ出仕の途伊予郡吾川村に於いて平岡弥十郎と口論の末決闘に及び遂に殺される。
田の口城 喜多村 田ノ口に在り城主詳ならず白石氏の古墟ならんか。
徳森城 喜多村 徳森に在り、城将不詳菅田村清水寺譲状に徳森殿一族とあれば此の一族の古墟なるべし。豊臣氏中国攻めの時毛利方加勢の郡内侍中に徳森次郎兵衛武勇の士なりとあり或いは此の人か。
平松城 三善村 春賀に在り、祖母井右衛門尉之重の居城なり
天王城 粟津村 八多喜に在り、水沼城という。天文年間水沼式部亟興成居り天正年中水沼治部太夫居る左京の子興成の孫なり。其の子権左衛門下城し後伊勢に落ちると言う。

清■城 粟津村(■は一の下に水) 八多喜に在り、延尾氏代々の古墟にて天正年間宮内太夫居る。
瀧の城 粟津村 米津に在り、城主津々喜谷遠江守行胤
三好城  粟津村 米津に在り、津々喜谷の属城にして家老三好左衛門尉の古墟なり。
手成城 粟津村 手成に在り、瀧の森の属城にして津々喜谷惣三郎信房の古墟なり此の城天正五年まで存すという。
臼木城 粟津村 手成にあり、臼木修理充の古墟なり

篠尾城 粟津村 手成に在り、津々喜谷に属し篠尾氏代々の居城なり。
瀧山城  瀧川村 戒川に在り、久保式部入道行吉の古墟なり。
石堂城 瀧川村 戒川に在り、石堂佐馬頭の古墟なり。
成野城 瀧川村 戒川に在り、成能西佛入道の居城跡なり。
大陰城 相生村 下須戒に在り、矢野氏の古墟にして城趾に大石あり昔より此の下に黄金ありと伝う。

取掛城 相生村 穂積に在り、二宮掃部の古墟なる。
水上城 出海村 兵頭氏代々の古墟にて権頭頼方の十六代石見守天正十三年下城して庄屋となる。
笠間城  豊茂村 大津城主宇都宮清綱の二男当地を領し笠間蔵人正綱と称して此の城に依り長門守石見守と代々の居城なり。
桜の城 上須戒村 向井の古墟にして後桜の城の前方向井城に移る本丸広茫三反余り今なお石垣井戸等を存す。
和田城 新谷村  和田に在り、城主不詳、ただし天正年間までは在城のよし先年城山の東麓字塚田に井戸を穿ちしに城内の祈祷札を得たるが天正の年号を認めたりという或いは大塚宮内太夫為安の古墟ならんか清水寺譲状に新谷殿一族とあり今村内に大塚の舊家ありまた大塚霊社とて在りという、

南予の古城 其ノニ

中畝城 新谷村 御臺城趾、中城趾、貞城趾と共に城主詳ならず。
山本城 新谷村 山本に在り、袖岡氏の古墟なりと伝う。
東 城 喜多山村 喜多山に在り、平井出雲守同遠江守の古墟なり
西 城 喜多山村 喜多山にあり、藤澤勘解由の古墟にて平郷を領し屡々五十崎と合戦せり陳ヶ森は其の出塁なり。
岡ノ城 柳沢村  柳沢に在り、尾崎藤四郎其の子東内蔵居る。

蒲木城 田處村 巌石累々たる城趾にて村上一族の海賊方田所神左衛門の古墟にして天正年かん下城す城主の鎧を柳沢村の六助と云う者持ち伝うという。
松 城  菅田村 大竹に在り、和泉の侍若狭守行定其子三郎右衛門行森の古墟なり。
竜王城 菅田村 有友蔵人進の舅岡宮宗金の古墟なり鍛冶谷城主中務と戦って敗れ敵塁に向かって墓を建てよと遺言して没しぬ、石碑に桝の紋を附すもとは公家という村内に其末裔と称する者多く化粧田と云える田を今に庄屋有友氏持ち伝う。
金丸城 菅田村 城主城戸藤太郎通正祖先を得能備後守通綱と云う。
菅田城 菅田村 町に在り、菅田兵部大輔綱宗の後天文の末大野上総介直之居る城二つあり山の城里の城と云い城主は常に里の城に居る、

池田城  宇津村 池田に在り、池田伊豫守の古墟なり。
藤川城 宇津村 藤の川に在り、富永内蔵同加賀守同伊賀守の古墟なり。
大野城 宇津村 一に平岩城と云う大野三郎太夫直光の古墟なり。
宇津城 宇津村  大野直家初めてこの城を築き紀伊守利直の弟丹波守をして居らしむ。丹波守姓を尾崎と改め其の子七郎直昌は天正二年閏八月廿五日長宗我部元親の為國境盟会に欺き討たる。大野家舊記にあり 略
成の城 大成村  森山に在り、宇和川汗生城主富永直安の弟富永美作守の古墟なり墓は瀧の上に在り。(汗はさんずいに于かも知れない)

沖の森城 大成村 成ノ城に属し八K關左衛門の古墟なり(八黒関左衛門?)
三重の城 蔵川村  紀藤将監の古墟なり、将監小森にて戦死し其の墓あり後祀て一宮明神と号す、小蕨の城、古城、新城、砂連城は何れも蔵川村に在り三重の城の三殿を合わせて村内八殿と云う。
高尾城  大谷村 当村妙竜寺の僧、武を好み橘直澄を招かんとして此の城を築き、北ノ川左衛門尉の侍大将兵頭藤左衛門居る。天正九年十二月土佐勢一万余騎乱入し北ノ川石見守敗れ兵頭亦之に殉して陥る。
表岸城 宇和川村 汗生城とも云う、中居谷橘城の一族富永直安の古墟なり、家老に關右衛門とて豪の者あり勇武に驕り他を軽蔑せるがある時城中の者共川狩りを催し八重栗の河中にて槍をもて突き殺したり今に關右衛門淵と云う
舩山城 宇和川村 加藤四郎左衛門の古墟なり

二重の城 宇和川村 四分市村堺に跨る、笹田甲斐介の古墟なり。
弓削城 宇和川村 主詳かならず或曰う森山村に伊毛城という在り大野掃部直安居る、直安は安芸守直家の男紀伊守利直の弟にして姓を尾首と云う、露峰村尾首城主に尾首掃部直幸あり同人歟伊毛弓削音相似たり森山に伊毛城と云うなし。
龍王城 五十崎村 古田に在り、城主喜土六郎附人日下八兵衛一に庄崎修理亮綱實とあり、庄崎氏は亦五十崎修理太夫という、曽根成(ママ城?)主丹後守宣高と善かりしも両領の農民少しの口論より募り庄崎曽根の両氏亦不和を生じ屡々の合戦に曽根は元来無勢のこととて天正五年七月長曽我部に降り土佐勢を誘引して攻め立つれば修理太夫力戦奮闘屡々敵勢を追い散らすと雖も衆寡敵せず綱實は迯れて周防に走り徳山に隠れ夫人は宣高の娘なりしが城を出て川手の方に逃れ竜王切岩にて寄手の為に殺される後此処を血早口と称う、河内駿河守吉行城代となり城戸直泰直盛居る。
神南城 五十崎村 神南山麓に在り、龍王城に属しリ左衛門佐養俊の古墟なり。
北之城 五十崎村 龍王城の枝城にして広瀬右馬、宇高彌十郎居る。
山之城 五十崎村 庄崎の属砦にして金刺出羽の古墟なり、本城と共に潰落したり。

曽根城 五城村 城廻に在り、文明年間宇都宮長門守清綱の二男眞綱忠太夫殿を逐い当城を奪取し城主小式部上窪に落ちて切腹すと云う。
黒瀬城 五城村 城廻に在り、深田越中の古墟なり。
大岡舘 五城村 五百木に在り、高橋對島の舘址にて二男助右衛門天正年間当村の庄屋となる
壹ノ城 五城村 城廻に在り、井上肥後の古墟なり。
井上城 満穂村 論田に在り、曽根の族井上勘解由左衛門正継の古墟なり。養嗣新助は河野通直の実子にて下城後当村の庄屋となる論田には曽根氏の族多く中にも武智、金刺、松岡、佐伯、土居、藤原、梶原、伊賀、河内、井上、栗田、稲月、藤本、等皆農民となる。
手ノ城 満穂村 河内に在り、一に出城と云う、作将左近太夫の古墟なり。

尾首城 立川村 山に在り、曽根右衛門の古墟なり。
森山城 立川村 川中に在り、郡中往還の要害城にして福島修理の古墟なりー中略ー此の外城趾三ヶ所あれど詳ならず何れも出城なるべし。
裏岸城 天神村 重松に在り、篠崎右馬介對島の古墟なり、其の墓は満穂村論田に在り子孫此の村に栄ゆと云う。
鳥屋ヶ森城 天神村 宿間に在り、豊ヶ森と云う天正五年曽根丹後守宣高栗田宮内少輔宗徳をして城代たらしむ。
柿原舘 天神村 平岡に在り、清水寺譲状に見ゆる柿原殿の舘址なるべし。

菊ヶ森城 御祓村(みそぎ) 只海に在り、清水寺譲状に多田浪殿とあるは此れ歟平氏の古墟なり。同村に城趾あれどもすべて詳ならず。
櫻ノ城 宇和川村 中居谷に在り、橘城とも云う富永氏の古墟なり、
堀ノ城 山鳥坂村 和気越前守の古墟なり
月ノ尾城 山鳥坂村 横林村境に在り、橘城主富永備中の弟右近の古墟なり、右近射術に達すと云う。
松窪城 奥南村(おくな) 植松に在り、堀ノ城の番城にして天正十三年和気越前守移住し源氏ヶ尾に舘を営み天正十五年下城の後は子孫植松山鳥坂両村舊領の庄屋となる。三崎城は其の番城なり。
石 城 奥南村 横松に在り、橘城の番城しして南尾源三郎の古墟なり。

十楽城 村前村(むらさき) 梅原寺城主仙波八郎兵衛の甥鬼堂才省の古墟なり、才省また岐藤斎文とも云い二本松に戦死す。彌々ヶ森は其の属城なり。
笠松城 村前村 笠松長五郎の古墟なり
中土城 村前村 中度重兵衛の古墟なり
今岡城 村前村 千葉但馬守の古墟なり。
森 城 村前村 森掃部の古墟なり。

白石城 大瀬村 四分市にあり、武智雅楽頭直政の古墟なり、同村久保城主久保長門守曾て飼牛を中野下駄馬に繋ぎ居たるが放れて雅楽頭飼牛の天神の境内に繋ぎ居たるを突殺したる遺恨に因りて武智勢久保方に攻め入り双方共討ち死にしたりという。後大塚源十郎城代たり又白石甲斐介居るという。
木菱(?)城 大瀬村 同村 大木土帯刀の古墟なり、天正年間栗田宮内少輔宗徳夜討ちせし時帯刀恐れて瓶の内に隠れ居るを宗徳瓶諸共に切りしが平岡村庄屋に瓶切丸とて指添を伝うと。
日表城 大瀬村 石の峰の舊城にして日表河内守の古墟なり。
岡 城 大瀬村 岡備中守の古墟なり
城ノ尾城 大瀬村 松尾大内記の古墟なり。
尾首城 大瀬村 尾首新蔵人の古墟なり

南予の古城 其ノ四


萩ノ森城 矢野崎村 大平に在り、西園寺の旗本宇都宮の古墟にして萩森殿と称し保内郷に於いて七千八百余石を所領したり、喜多郡地蔵嶽城主宇都宮遠江守総州の二男彦右衛門尉房綱父及び舎弟吉之丞喜清と共に参って萩森城に拠る。河野分限録に、宇都宮彦右衛門尉房綱 萩森城 高森城 城高 飯森 四ヶ所 手勢八十四騎 西国太平記に、此の宇都宮は関東の宇都宮公綱尊氏将軍の時伊豫を賜はり大洲城に居る其の子孫他。
御代城 平野村 野田に在り、姓不詳大蔵の古墟なり。
皿之森城 平野村 野田、平地の村境に在り、南方、萩森の遠見城なり.
高森城 平野村 平地夷嶽に在り、萩森殿家老梶谷伊豆の古墟なり、宇都宮総州病で此の城に来り終に没す法名は異賢其の墓は平地に在り。
城高城 喜須来村 喜木に在り、萩森殿の旗下大塚嵐之助の古墟なり、兜に三本菖蒲の前立をなし敵を追い散らし打ち破ること嵐の木の葉を散らす如しとて嵐之助と名乗る、下城の後法衣を纏って慶山と号したり。
今 城 喜須来村 須川に在り、新田神社々記によれば新田義宗の二男左衛門義忠の古墟なりと。

元 城 神山村 五反田に在り、摂津氏の古墟にして岩野保内二郷の内四千八百三十石を知行し西園寺の旗下に属し南方殿と称う、宇和舊記略ー 親安の書にー群軍書類従にー元中乱離記にー長元物語にー南海治乱記にあり
石堂城 神山村 矢野町に在り、菊地源左衛門の古墟にして天正六年七月陥る、南方殿三家老の随一中西殿なり此は江藤の弟苗字を菊地という。
今 城 神山村 矢野町に在り、南方の属城にして摂津主水親宗城代として居る。
天神山城 - 五反田に在り、矢野家成城代として居る。
若山城 双岩村 若山に在り、三瀬若山殿という、三瀬善左衛門丞の古墟なり、
江之川城 双岩村 若山に在り、南方の属城にて井上與次右衛門居る、三家老のうちなる江の川殿の古墟なり。

飯森城 宮内村 此の城以前は枇杷谷村の内に在り、城主得能彦右衛門下城後は上伊豫に退く。
長崎城 町見村 九町浦に在り、宇都宮の旗下得能主膳通明の古墟なり、一に臺とて伊方村に在りというは誤りなり。
中尾城 三机村 三机に在り、井上善兵衛尉重房の古墟なり、重房の先代河野より定紋を賜る此のあたり屡々海賊の難に遭う重房は宇都宮の命を以て鎮定し民衆大いに安堵し人口も繁殖したり。
松森城 三崎村 大佐田に在り、三崎の地頭二宮新助は三崎の山崎城より此の城に移る。
玉居城 三崎村 三崎に在り、萩森の属城にて大久主馬範定の古墟なり
山崎城 三崎村 二宮新助最初の居城なり
城ノ森城 礒津村 磯崎に在り、矢野(主馬)與左衛門家森の古墟にて昔は南方の領分なりしよし。
喰野山城 真穴村 二木生の垣生真穴の穴井に跨る城主詳ならず。



南予の古城 其ノ伍

東宇和郡

松葉城 上宇和村 初め岩瀬城と称し西園寺の古墟なり、城趾の東南は天然の厳壁にして本丸の趾に左氏珠山の建設にかかる松葉城之碑及び小祠在り、其の北方に古井を存す、碑文は上甲振洋の選になる、
水ヶ森城 上宇和村 久枝に在り、久枝城という、水ヶ森とは黒瀬城内給水の故を以てなり、宇都宮越前守有綱の古墟にて其の墳墓は同所片山に在り、有綱の嫡子又右衛門尉輿綱(一に弘綱)は左近太夫と称し黒瀬三執権の随一なり、弟を七郎左衛門清綱、嫡子を實綱という。
長崎城 上宇和村 久枝に在り、久枝五右衛門の古墟なり。
大森城 上宇和村 永長に在り、三善三郎右衛門春澄の出城なり
八ヶ森城 上宇和村 野田に在り、野田、伊賀上、卯之町、久枝の境に接し、松田左兵衛の古墟なり。
大 城 上宇和村 小野田に在り、城将詳ならず
日土城 上宇和村 永長に在り、一に永長城と云う、城趾の規模広大なり、豫章記に、宇和西園寺山方衆永長一族云々。

黒瀬城 宇和町 西園寺の牙城にして要害最も嶮なり。河野分限録に、南海治乱記に、愛媛の面影に、米良氏舊記に、野史に、豊薩軍記に、大友興廃記に、南路志に、豫陽盛衰記にアリ
立野々城 宇和町 伊賀上に在り、祖母井の属城にして、うばがい殿持城と云い伝う、祖母井は喜多郡の豪族なり。
籠 城 宇和町 伊賀上に在り、一に我合城とも云う、黒瀬の属城にして松本右京城代たり。
護摩ヶ森城 宇和町 伊賀上に在り、黒瀬の属砦にして宇都宮関兵衛城代たり。
伊賀城 宇和町 伊賀上に在り、今藤右京進の古墟なり。
鉢ヶ森城 宇和町 黒瀬の支城(枝城?)にして松田左兵衛居る。
遠見城 宇和町 芝城、土居城、共に伊賀上に在り、黒瀬の支城なり
奴伽城、平城 宇和町 共に鬼ヶ窪に在り、黒瀬の属砦なるべし

信田城 下宇和村 皆田に在り、宇都宮三河守定廣の古墟なり
今ヶ城 下宇和村 皆田に在り、皆田三郎兵衛親頼居る
岩村城 下宇和村 帆柱城、鵯瀧城 何れも皆田に在り、枝城なるべし
明間本城 下宇和村 明間に在り、戸塚川兵頭関兵衛友綱の古墟なり、赤濱右近太夫法綱はその後歟古文書あり、明間に佐藤左衛門佐という者あり、河西に居る、元暦の頃源義経伊豫守となりし時佐藤の一族奉行となる其子孫諸所に在り。
陣之内城 下宇和村 下川に在り、城将詳ならず
遲越城 下宇和村 川に在り、城将詳ならず

小原城 笠置村 小原に在り、清澤御所という、西園寺の一族松田覚助の古墟、其の墓清澤に在り。
上 城 笠置村 中城、下城跡と共に小原に在り、清澤御所の属砦なり
鳥付城 笠置村 郷内に在り、一に取付けに作る、三善三郎右衛門春澄の本城なり、
宮森城 笠置村 郷内に在り、取付の属城なり
松岡城 笠置村 岩木に在り、城将詳ならず。
吉岡城 田之筋村 梶山城、瀧之江城、伊崎越城趾ともに常成寺に在れど城主詳ならず。
本 城 田之筋村 城主は雅楽とのみにてその他は詳ならず。
松森城 田之筋村 田之中に在り、黒瀬の番城にて上甲治部少輔城代たり後石見守と改む。
糠城、笹城 田之筋村 明石に在り、共に城主詳ならず
今 城 大成郡録には窪村に在りと云えど詳ならず、此の外、伊崎城、十貫龍城、徳森城、龍口城などあれど何れも村名所在詳ならず。
峰 城 山田村 山田に在り、黒瀬三執権の随一三善春範の本城なり

松之城 中川村 加茂に在り、三善春範の支城なるべし。
加茂城 中川村 加茂に在り、城将詳ならず。
丸岡城 中川村 坂戸に在り、一に西姫城という、西姫は西園寺實充の女にして、宇和舊記に、西園寺實光女西姫を以て公廣に娶し西園寺を嗣がしめむとせしに公廣何故にや手討にせむとせし故左右之を止め姑く京に上らしめ置きしが後此城を築き西姫を居らしめ諸士主君と崇め仕へたり。
橋本城 中川村 福の森城、亀甲城、移森城、小城と共に坂戸に在れど城将何れも詳ならず。
大江城 中川村 大江に在り、西園寺の番城にして永井藤三郎有森居る。
沖之城 中川村 大江に在り、大成郡録には真土村とあり、西園寺の属城にして上甲筑前守、同市之進居る
兒持城 中川村 峰ヶ城、西城 同村 大江に在り、何れも沖之城の枝城なり

丸山城 中筋村 平野に在り、本城の属砦なるべし
國木ヶ城 中筋村 城将詳ならず、城趾に九人の首塚在り。
金若城 中筋村 伊豫地川氏の古墟なり
尾首城 中筋村 三瀬宮内丞の古墟なり
鉢ヶ森城 中筋村 白木の支城にして四郎谷の境に在り。

三滝城 土居村 窪野に在り、三方断崖絶壁にして一方僅かに山に連なる天嶮要害山中渓水激流して瀑潭をなすもの五六就中大なるもの三、三瀧の称之に依て起こる、城主紀氏初め土居甲森城に在り立山修理を以て三瀧に城代たらしめ後三瀧に移り永山伯耆守をして甲森に居らしめたり。河野分限録に、伊豫俚諺集に、愛媛面影に、続日本紀桓武巻に、残太平記に、元親記に、南海治乱記に、土佐軍記に記述あり
鐙ヶ鼻城 土居村 惣川に在り、一に天神ヶ森と呼び相伴紀伊守の古墟なり。
相伴城 土居村 惣川に在り、相伴伊豆守居る。
甲森城 土居村 土居に在り、城代永山伯耆守の古墟とす、又尾崎弾正居る、舎弟の六太夫に至って落去すという。
森 城 宇和北の川土州境に在りという、城将荒川大学、酒井重次郎は共に郡内大野の旗本なり。

大番城 高川村 高野子に在り、城代紀長門守の古墟なり、後越後守と改む。
竹之森城 高川村 川津南に在り、城将詳ならず
白岩城 遊子川村 遊子谷に在り、白岩左近太夫の古墟にして、後桑折宗臣在城すという。
猿ヶ嶽城 横林村 西園寺の旗本北の川紀式部少輔親安の支城にして岩本将監居る。天正十一年正月十三日長曽我部に破られて城落ち将監は城を出て麓の鹽屋の淵を泳ぎ渡り栗木村小込の川辺にて割腹したり、爾来坂石の高石より下る川船はこの前を通過する時は神酒を献じ念仏するという土人其遺骸を崖上に葬り後人碑を建立して英霊を祀る。其の碑文にー略 安西軍策に 略 芳闕嵐史に、明徳四年四月廿五日新田武蔵守義宗、脇谷右衛門佐義治並に二氏の妻子及び一族には堀治部大輔貞範、大江田兵部大輔義政、田中修理亮義俊、里見大炊介義氏、羽川越中守直重、一井兵部大輔義綱、天野民部大輔政長、細屋右京亮義信、大館小次郎氏清、岩松三郎経氏、堀兵庫介貞政、酒匂衛門尉安之、鳥山右衛門尉義堯、宇都宮三河入道定綱、中條宮内大輔経俊、他家随兵の士兒島四郎左衛門尉正綱、同四郎太郎正胤、篠塚掃部介範能、畑次郎右衛門時忠、小山田兵衛尉家久、宣理治郎太夫直家、栗生七郎左衛門尉俊貞、太田次郎基行、金子三郎元忠、舟田六郎氏春、林六郎入道源秀、兒島吾左衛門尉氏則等卅八名外十四人或は山伏或は行者乞食の姿に身を変え出羽の国羽黒山の寺中護法院少僧都寛明の院内を立出でたるは此年の正月廿二日のことなりしが九十余日にして漸く伊豫國越智郡の大島に着し島司村上式部大輔師清、同山城守義顕父子の舘に至り、是より浮穴の舘得能備後入道通範が所領たる道後湯の奥山は人里遠く閑疎なる幽谷にして井河上河野二郷に接する要害の地なれば此処の小峰に城を築き芳野山加名生山と号する二ヶ所の麓平坦在る所へ舘を構へて二氏及び従随の人々を安穏に住居せしめ秋の半に至りければ世上の取沙汰を憚り当國宇和郡猿ヶ岳の城は河野が一族土居左衛門九郎通教の嫡子式部少輔通勝の所領へ移し替へたるが義宗並に従者も此地は余り陰鬱の所なりとて得能左馬頭通興實父備後入道了雲が隠遁の地なる能美山霊山の城に招きしが云々。宇摩郡下山村新田神社々記に
左少将武蔵守義宗明徳四年発出羽國而退千伊豫國住宇和郡猿嶽城云々。
小振城 横林村 豫子林に在り、岩本の臣大塚玄蕃の居城趾なり。

龍ヶ森城 魚成村 魚成豊後守平通親の古墟なり、其族豊後守親縄、大和守玄親、伊豆守能親、上総介親能相継し周智郷内に高千石を知行し魚成殿と称す、むかしは三百六十貫知行のよし、清良記には兵庫頭兼吉という。
山之城、野々之城 魚成村 共に龍ヶ城の属砦にして城主詳ならず。
白木城 野 村 宇都宮左近尉乗綱の古墟にして、周智郷内に二千石を知行し落去後は梅林と号して野村に居る岡屋敷にその墓在り。
堂山城 高山村 宇都宮長雲の古墟にして修理太夫正綱、左近尉光綱(一に左京允充綱)助太郎歴代の居城なり
法華津本城 玉津村 法華津に在り、法華津播磨守範延(則宣)彌八郎前延、播磨守保延、三代の居城にして永長立間来村三郷の内高四千二十三石を知行したり。

下木城 多田村 東多田に在り、宇都宮永綱居る。
飛鳥城 多田村 東多田瀬戸口に在り、一に笹城という西園寺公高戦没の地城麓に其の墓在り。
宇治城 多田村 東多田に在り、下木の属城にて宇都宮與兵衛尉居る、與兵衛尉は宣綱の弟なり。
有森城 多田村 岡山に在り、永井藤三郎有森居る、下木の属城なり。
伊延城 多田村 伊延に在り、高森五郎四郎の古墟なり、
鎌田城 渓筋村 宇都宮三河守直綱の古墟にして、同村上城の城代上甲伊豆守は直綱の家老なりしが竊に謀叛をたくらみ公廣に讒して討ち取る、其の墓は同村畑の中に在り屡々異変あり土人恐れて世々崇敬せりと云う。
鎌鹿城 渓筋村 上甲彌兵衛家次の古墟なり

亀ヶ城 宇和上ヶ所土州境に在りと謂うも詳ならず、城主近澤左兵衛、高越源八共に大野の旗下なり。
馬越城 宇和馬越に在りと謂うも所在詳ならず大野の騎下城主土居式部安部伊勢とあり。
君ヶ城 宇和土州境に在りと謂うも詳ならず大野の旗下にて城主を吉澤善兵衛、溝口杢兵衛という。
日振城 城主樋土行衛、亀井萬作共に大野の旗下なり、日振は日土(樋土)の誤り歟、右の城趾は惣川付近なるべしと伊豫舊跡鈔、大野家舊記等に見られたり。
飯森城 大友興廃記に  元亀三年卯月上旬に伊與國へ押渡り……飯森の城にはいつのいさきと云ふ所の侍籠り既に七月十九日押寄せしかば出相槍を合せたたかい勝負を決するに 略

南予の古城 其ノ六

北・南宇和郡

吉田陣屋 吉田町 明暦三年七月十三日幕府に奏請したる吉田分知の儀は廿一日無事許可あり、三万七石六斗五合を十一郷の内七十七ヶ村後吉田領漁場に乏しきを以て延野々、近永、永野市を以て北灘、下波、蒋渕と入れ替ふ)を秀宗五男宮内少輔宗純に附し八月十六日千三百石井上五郎兵衛以下八十一人を分って吉田に舘せしむるに至れり、此の地土居氏の古戦場にして喜佐方村へかけて葦葮ひ茂り沼澤連なり(喜佐方とは草潟の転出せしものにて今に沖、河内、船繋松、深泥、蒲田、鵜ノ礁の名を存す)しが東西の山下に堤防を築き埋立をなし万治二年正月十一日より普請の工を起し翌年に至って家中成就し、石城下には河水を誘致して外堀となし祝して吉田と改称したり、以下略 山田騒動、略
元禄十四年春二月勅使饗応係播州赤穂の城主浅野内匠頭長矩と同時に霊元上皇の院使傳奏清閑寺権中納言熈定の饗応役を勤めしは左京亮宗春なりしが宗春若年にして万事は家老に依って処置せられ敏くも吉良上野介義央の人為を知り噂によれば黄金百枚加賀絹幾巻探幽筆竜虎の對幅などを贈れりといふ。
石 城 立間村 吉田陣屋の後山にして俗に御殿山と云う高三百九十六尺なり土居氏の要害城にして黒瀬の咽喉に位す東北山続きに竹城趾あり竹ヶ尾とは此の付近ならむ
犬尾城 立間尻村 鶴間に在り、高四百二十九尺あり初め土居氏の築く所にして後法華津氏に属す法華津殿の属砦乾城とは此れ歟。
吉岡城 喜佐方村 河内に在り、法華津の重臣御手洗彌三郎道隆城代たり。
白木城 喜佐方村 白木左近将監の古墟なり
仙波城 喜佐方村 清家秋信の古墟なり
丸城、森岡城、松ヶ城、もろや城 何れも喜佐方に在り城将詳ならず

古 城 来 村 宮ノ下に在り、里俗古城と称してその名を聞かず来村川山下を流れ城山孤立して要害に富む板島丸串城の属城趾なるべし往昔に在ては来村川の河水は古城の東を流れて裾を神田川に合し海は深く古城山に西に湾入して山麓を洗い斯くて古城は丸串城山と要害を競いしは疑うべからのち河流を暗淵より古城の西に通じて保手の海に入らしめ舊河流の跡に長堀を設けたるものの如し今に長堀を存す思ふに西園寺時代の丸串属城趾ならむ、或いは尾串と云はむ歟。
福ノ森城 来 村 寄松に在り、丸串の属城なり
赤烏帽子城 来 村 寄松に在り 内大臣藤原直通は南北朝の乱れに罪を蒙り都を退き山城長岡の南四町の所に城を築て居ること久しく永禄九年夏直通の後紀伊守友岡慶則伊豫に下り宇和郡に入り地を須めて寄松に赤烏帽子城を築く、舊臣参集し盛に武を練る里人大に畏敬したるが天正八年辰十二月廿三日長曽我部元親の軍兵来り攻む時に慶則痢疾に冒されて起つ能はず自刎して死し行年四十六歳城遂に陥つ、長松寺の僧眞如大に悼み厚く葬り勇儀院殿慶則朝臣大居士と謚したり其の妾貞女時に十六歳薙髪して菩提を弔ひ正保二年十月二十五日八十一歳の高齢を保って死し法名を月住照圓大禅定と謚る。後人慶則を祀り友岡霊神と称し、今来村保田に在り。(この説大いに疑問あり・管理人)
亀淵城 来 村 宮ノ下に在り、西園寺公廣の旗本薬師寺伝左衛門尉親頼の古墟にして剣城、麻小笥城(おこげ)等の支城を有す。薬師寺を祭る親頼神社は宮ノ下剣城趾に在りしが今は尾串社神社に合祀す。
安信城 来 村 保田に在り、長松城と共に支城に属す。
甲斐ノ森城 来 村 祝森に在り、津島殿越智氏の最初の居城なり要害にして亀城、龍ノ尾城の支城を有す、祝森は津島、板島半分宛の知行に属したり。

板島城 八幡村 下村に在り、一に亀次城と称ふ、西園寺の旗本板島志摩守の古墟にて山麓の舘趾を庄屋屋敷と云う。
城麓に犬の馬場といふ所あり是は正月射初めの時城中より犬を射るを吉例とせし由宇和舊記に見えたり。
鎌江城 八幡村 藤江に在り、一に奥ノ城と称し鎌居また鎌屋とも云う西園寺の旗本鎌井彌藤次郎重利の古墟歟。
鎧城 八幡村 中間にあり、一に入道ヶ城と言う、此の他草野々城、高麗城趾あり城将詳ならず。
夏秋城 高光村 高串に在り、糠ヶ城、烏ヶ泊城と共に家藤氏の属城なり
中次城 高光村  高串に在り、薬師寺伊賀守、赤松肥前守等の古墟なり。
柳田城 高光村 高串大神谷に在り、柳田弾正の古墟とす。
程岡城 高光村 高串に在り、程岡五郎丸の古墟なり、口碑によれば柳田弾正と合戦の時両軍の矢頻に中間の川淵に落ちたり今矢淵と云う。大神谷奥道の森山城は程岡の居城趾なり。

金山城 成妙村 戸雁に在り、今城肥前守能親(一に能信)の古墟にて成妙郷の内に於いて高四千七百六十一石八斗九升九合を知行し有間殿と称して西園寺の旗本に属し戦功多し有間は舊領の称なり能親は土居の族得能氏にて得能弾正忠能宗七代の後にして右馬介能久の子なり嫡男を兵庫頭能興と云う、
雨乞城 成妙村 澤近駿河守の古墟なり
竹中城 成妙村  太宰数馬の古墟なり
岩倉城 成妙村 曽根に在り、松浦将監の古墟にて天正年間落城後は御内村に住みその地を拓き地主となると云う。
松越山城 成妙村 大藤に在り、薬師寺新蔵人の古墟なり
黒井地城 成妙村 黒井地に在り、黒瀬の属城にして大済太郎右衛門城代たり
正徳ヶ森城 成妙村 務田に在り、金山城属砦の観あり、此の他能壽寺に萩森、茶臼ヶ森城、鳥屋ヶ森の三城趾あり、金山の属城なり。
金山城 成妙村 成家に在り、黒瀬の属城にして澤近彌左衛門尉城代たり、是房の澤近城趾は其の出城なりという。

大森城 三間村 宮之下に在り、土居の本城にして成妙郷の内にて高二千六百五十二石三斗一升五合を知行とし大森殿という。河野分限録に 土居式部大輔清良 土居城主 手勢五十騎
衣笠城 好藤村 澤松に在り、中野殿と称して河野彌太郎通行ののち河野新蔵人通賢の古墟とす、衣笠一に高森と云う百姓分郷好藤の郷の内にて五千参百八十二石余を知行す。河野分限録に、  ◎豫陽盛衰記に  ◎宇和舊記にあり
岡本城 好藤村 古藤田に在り、要害にして初めは中野の枝城にて西藤右衛門に属す、後土居に賜り眞吉新左衛門尉城代たり。
◎後太平記、略 ◎二名村松本氏舊記、略 ◎土佐軍記、略 ◎南海治乱記、略
一森城 好藤村 深田に在り、宇和舊記には是延村へ山七八分掛かる二三分は吉浪へも掛かるとあり城主竹林院氏の祖先は西園寺實氏なり公相實兼を経て左大臣公衛竹林院と称し其の後永徳元年来って深田の地頭となり、吉藤郷の内にて二千百十六石六斗を知行し深田殿と云う。◎宇和舊記、略 ◎河野分限録に竹林院右衛門佐實親 深田城主 手勢拾騎 ◎南路誌に、略 ◎豫陽盛衰記に、略  内深田の中城趾は其の出城なり
西の峰城 好藤村 吉浪に在り、深田の属城なり
澤近城 好藤村 是延に在り、澤近駿河守の古墟なり

阿古目山城 二名村 黒川に在り、大成郡録には告森村とあり。
告森城 二名村 中間に在り、中野の属城なり
浪岡城 二名村 古藤田の在り、口碑に依れば兵頭波岡の古墟なりといふ
井関城 二名村 兼近に在り、高森の属城にして井関亦右衛門尉盛景、中務盛房の古墟なり
金銅城 金銅に在り、城将詳ならず城麓に金銅屋敷と云う所あり、城主の舘址か。

石崎城 旭 村 芝に在り、宇和舊記、大成郡録には次郎丸村に在りと云ふ、此の外芝に陣ヶ森奈良に川後瀧、近永に赤島城趾などあり。
坪之内舘  旭 村 中野中に在り、宇和舊記に、清良記には奈良坪内摂津守清俊其子権之進清近といふ人ありといへども奈良の内に坪内といふ所なししからば次郎丸の中川の坪内なるべし
高越の城 旭 村 奈良に在り、坪内摂津守の属城なり
京の森城 泉 村 奥野々に在り、芝の属城なり
川後森城 明治村
(あけはる)
松丸に在り、渡邊氏の本城にて成妙黒土郷の内にて一万六千五百石を知行し川原淵殿と称す渡邊越後守嗣子にし依て一条尊家の弟東小路法行の子教忠を養ふ ◎清良記に  ◎河野分限録に ◎南路誌に ◎南海治乱記にあり  河後森城天守閣は慶長九年藤堂和泉守高虎宇和島に引き丸串城の月見櫓となす冨田信濃守領の時には田島壹岐守城代たり伊達の封を襲ふや寛永の頃桑折中務城代として七千石を知行したり一書に河原淵城城主川添左門、石田武兵衛とあり。都の森城趾は松丸にあり、山瀬、島之城、親行城趾は共に富岡に在り、河後森の属城にて榊城趾は小倉に在り出城なり。
大森城 明治村 延野々に在り、中村右衛門太夫の古墟なり。

高野森城 三島村 下大野に在り、元久年間には佐々木雅楽頭綱吉居り後芝一覚政景の属城となる。
西野々城 愛治村 西野々に在り、城将詳ならず能登守と云ふ、天文年間に切腹し殉死する者十一人、 武蔵守、豊前守、治部亟、八郎次郎、金藏之充、大覚、甲斐之介、佐馬充、右京、小四郎、六宗と云ふ姓傳らず、城麓に西野の城に汲む井戸あり蛙水中に多く其の声にて物音さへ弁ぜざりしが能登守絶命の時長一尺幅三寸の木札を井中に投じて以来蛙少しも鳴かずと云ふ。
鳥屋ヶ森城 愛治村 清水に在り、河後森に属し西川豊後守の古墟にて後芝美作政輔其子瑞胤居る。     ◎土佐軍記
上鍵山の萩之森城と川上の徳の森城は共に芝一覚の属城なり
亀ヶ森城 愛治村 大宿に在り、河後森の属城にて大宿宮内少輔弘正の古墟なり其後渡邊将監舎弟左衛門尉居る。畦屋に恵美須泉ヶ森の両城あり属城なるべし。

天ヶ森城 岩松村 岩松に在り、越智氏の古墟にて初め来村郷祝森甲斐の森の拠り後高田釈迦ヶ森に移り天ヶ森に転じ岩松岩藤清光来村四郷の内一万石を知行し津島殿と云う、越前守通教、安芸守通繁、彌三郎通顕居る、河野分限録に、
津島三郎通顕 津島城主  手勢四十五騎
  寄騎衆 岩藤與左衛門尉繁昌 西新蔵人入道 曽  根近江入道通之 高田善介通宗 以上四騎 合四  十九騎
津島彌三郎は越前守と云う墓は高田新田南森に在り傳へ曰ふ天正十二年六月元親大軍を率ひて天ヶ森城を攻む石丸山口曽根岩藤西松浦國松山中の猛士よく防戦すると雖衆寡敵せず兵糧尽きて青麦早稲を苅て空腹を満たすされども支ふるを得ず遂に落城し一族自刎すと一説には城主等数騎北走して長濱に至り彼の地に逝く夫人等は西に逃れて嶽山に於て敵手に落ち最後を遂げし由。
石丸城 高近村  高田に在り、津島殿の属城にして石丸播磨守平勝繁の古墟とす勝繁天正十五年八月十三日逝去し嶺松院殿前播州郡司擔月了照大居士と謚しぬ、嫡子善助落城の後高田湯中に住み後岩松の庄屋となる其子伊兵衛と称ふ嗣子無く槇川村の庄屋彦三郎(中国大内義隆の玄(?)孫といふ)の子を養ひ石丸伊左衛門と云ふ後槇川の庄屋となる、嫡男右兵衛は豫土篠山境目争論の時従者六人を拉して江戸に上がり決裁を幕府に仰ぎ三年を経て帰国し苗字帯刀を許され寛文三年更に岩松芳原新田の開築を許され槇川の庄屋は従弟長兵衛を以て嗣がしめたり。
松ヶ城 高近村  高田に在り、釈迦ヶ森の枝城にして西新蔵人佐實光の古墟とす。
原田城 高近村 高田に在り、田口弾正佐の古墟なり、其の裔田口與五左衛門伊達氏に仕え桜田数馬の組下に属したるが後大久保氏に仕へたりといふ。
金剛城 高近村 高田に在り、津島殿の諸士頭岩藤與右衛門城代たり、岩藤の郷名は之に依て起るといふ。
嘉権坊城 高近村 高田に在り、釈迦ヶ森の枝城にして高田太良四郎の古墟なり。
高森城 高近村 近家に在り、享禄年間薬師寺但馬守橘高村居る其子伊勢守清元駿河守清久は毘沙丸と云ふ、属砦藁江城は享禄年間但馬守橘高村居り後式部大輔孝義依る此の外西の丸、向城、飛鷓鴣、石門の属城あり

音無城 畑地村 津島殿の属城にして国松土佐守居る其裔藤五郎上畑地の庄屋となり伊達領に至り下村に移住し後高田村の庄屋となり三寳寺殿の墳廟を守り石丸伊左衛門の次男藤兵衛を養ふ。
鶴之森城 畑地村 上畑地に在り、曽根豊後守通武居る逝去後は夫人鶴女遺孤を育てよく城を守る豊後守は通顕の逝去後代って津島を統治したりと見ゆ其後曽根神右衛門尉通元あり、此の外同村内に日帰城宮ノ森城の古墟あり。
和泉ヶ城 清光村 岩淵に在り、津島殿の将曽根近江入道通之の古墟なり。岩淵化生碆にて美しき女性の姿をした川の主と通之との伝説在れども是略す
山崎城 清光村 岩淵に在り、土州幡多郡賀久美の城主源通重は通顕の妹大方を娶る、長曽我部の為に逐はれ来って山崎城に終る法名を瑞光寺殿明岩禅燈大居士と謚せり墓は岩淵瑞光寺谷南の藪中に在り。
薬師丸城 清光村 増穂に在り、秀松石見守の古墟なり墳墓は祝森秀松城趾にあり毎年七月祭祀を行ふ、御手洗城は山財に在り澤松城は御内に在り共に和泉ヶ城に属す。

御荘本城 城辺村 御庄は松の庄の総称にして往昔京都叡山の知行所にて延暦寺の荘園ない、叡山よりは代官として役僧下向し平城に舘して収納の事を掌り居たるが屡々海賊の難に遭い本山の譴責を蒙り土着したり其子を兵庫頭基明と云い本城に拠って西園寺に属し松之庄の内を五千九百石知行し猶土佐の内に千石を領して勧修寺殿という其子を左馬頭基詮、孫を権太夫基賢という、清良記には兵庫頭基任其子左馬基章とあり、土佐軍記、西国太平記、南海治乱記等に載する所の越前守とは権太夫基賢のことなり、河野分限録に
勧修寺左馬頭基詮 大森、本城、緑城、新城、猿越城四箇所城主 手勢三十騎 寄騎衆 上岡玄蕃知光 満倉加賀守 尾崎藤兵衛 以上三騎 
御庄衆合三十三騎
左馬頭基詮の墓は東外海久良に在り、緑城、猿越城は共に緑村に在り、大森城は城辺村に此外の属城今木鳶巣二城亦城辺村に在り、峠、武唐の両支城は正木村に在り、新城は國境土佐領須々木村に在り尾崎藤兵衛の拠るところ、以下略
宇和舊記に御庄殿の苗字を勧修寺と云ひ伝ふること不審なり右の古文書に緑村新左衛門と云ふ人の所有なるが右古文書の中に御所へ云々とあるを思へば西園寺のことか或は公家勧修寺末流の衆在城して左馬頭は其執事のところ後自ら勧衆寺を称せしには非らざるかと。
西国太平記には
 本城里の城緑の城猿越の城新城五ヶ所御庄越前守が所帯なり十市備後守堅くはかりて降参させけり緑城をあやまりて緑の城と云う。
南海治乱記、略、 土佐軍記、略
大森城、本城、緑城、新城、猿越城 -

そのうち現在の状況の画像が得られるものは載せようと思うが………期待しないほうが良いだろう。
無謀だという声が聞こえそうだ。



SEO [PR] 母の日 カード比較 再就職支援 バレンタイン 冷え対策 誕生日プレゼント無料レンタルサーバー ライブチャット SEO