古城山の謎
謎というほどの事ではないが企画構想、苦節三十年の思いを込めて


古城山とは宇和島市内南西にある城跡


近寄って見る。は宇和島南高等学校、は明倫小学校、は城東中学校。

は三島神社、は堀部公園(ちょっとずれた)は長堀、は国道56号線と長堀が交差するところ。
この写真から見ると、古城山と三島神社と堀部公園は昔はつながっていたことが推察される。

この位置関係を理解して下の文章を読んでほしい。

 宇和島の町の南方に、古城山(ふるしろやま)という丘がある。

 ここには、戦国時代に亀が渕城があり、西園寺宣久(板島丸串城=宇和島

城主)の家来、薬師神伝左衛門尉親頼(やくしじんでんざえもんのじょうちかよ

り)(古書には薬師寺とある)の居城であって、板島丸串城の属城であった。以

前はここが来村西園寺氏の本城であったが、天正三年(1575)丸串城が本城

となったので、古城と言うようになった。
 
 昔、この城の西側は海であった。来村川が長堀を流れて神田川に合流して海

に入っていた。のち来村川の流れを暗渕(くらふち)から古城の西につけかえ、

その跡へ堀を設けた。堀は長堀と言って、今日もその名が残っている。

薬師神伝左衛門尉親頼の墓は、現在堀部公園にある。また、親頼は親頼神社と

して、宮下の尾串森に明治四十年頃まで祀られていた。

 戦国時代、宇和島から津島町に至る間は、宇和島にとって重要な所で、各所に小さな城や砦があっ
て守りを固めていた。来応寺の上には「剣が城」があり、「麻小笥(おこげ)城」、「福の森城」が番城小
学校東側の山にあり、保田には「赤烏帽子城」(紀伊守友岡慶則の居城)、今は友岡様といって除疫
の祈願で有名である。 また、その南に「長松城」・「龍尾城」があり、祝森には「亀城」・「秀松城」・
「かいの森城」がある。

 面白いことには、地元の人は「かいの森城」のことを「城」といい、「秀松城」のことを「陣」と言っている。
 また、来村地区には並松(なんまつ)といって大きな松が道路に並んで植えてあった。それは藩政時
代いざという時に、これを切り倒して敵を防ぐためのものであったという。

 宇和島の城北や高光方面は、地理的に見て交通の要衝にあたり、度々土佐の長宗我部氏や一條氏、
また、豊後の大友氏の侵略の脅威にさらされたところである。それで城跡の数もかなりの数に及んでい
るところから見ても、西園寺氏にとって戦略上重要な地点であったことがうかがえる。

 まず、和霊神社裏の山には「鎌屋城」(奥の城ともいう)があり、「板島城」は城北中学校の北側の山で、
板島志摩守の居城。屋敷は中間(なかいだ=伊吹町)の庄屋の屋敷とのことである。「草野城」は八幡
神社の上で、今の石鎚様のところであるが城主は不明。「高麗城」は柿原に、「鎧(よろい)城」は伊吹町
の東にあったがいずれも城主は不明である。
 高光方面の根無川には通称丸山というところに赤松肥前守の居城「夏くら城」がある。家藤監物の本
城は家藤の「夏秋城」(一名道免城)であり、根無川の「糠森(ぬかもり)城」は出城である。柳田弾正の
「柳田城」、程岡五郎丸の「程岡城」、森岡数馬の「森岡城」がともに徳の森にあった。
 申生田(さろうだ)口に薬師寺伊賀守の「中次城」、東方光満の別田山には「烏が泊(からすがとまり)
城」があり別田太郎左衛門の居城であった。
 別田山に草刈りに行った人の話によると、今でも古瓦のかけらを見つけ、城の跡をしのぶ由である。
 しかし、四百年の歳月を経た今日、これらの諸城跡は、当時の名残をとどめるものはほとんどない。
【宇和島の自然と文化】より引用

私がこの山に興味を持ったのは小学生の頃だった。
化石の取れる場所として知られていたが、なによりも
惹かれたのは、前方後円墳のような山の形であった。
初めはこれは古墳ではないかと興奮(しゃれ判ります?)
したが、大人たちから一笑に付されたことがあった。

上は昭和六十年頃だと思われる。すでに畑はなくなり、公園の様相を示している。

   
黄色の建物はイヌガイ自転車。泰平寺の上から古城山を眺める。(左)
西の保手団地から見ると山頂の岩はまだ残っていた(中)
予科練橋から見る。(右)


来村川側から見た古城山。


一時期はブームになった巨大迷路があったが、すぐに閉鎖になった。今は立ち入ることは出来ない。


この写真は昭和五十年頃撮ったもの(だったと思う)
山頂に巨大な岩があった。


もっと前に調査していれば何か見つかったかも知れないが、宇和島市は無関心だったのか。

ついでなので、泰平寺から撮った市内の写真を掲載する。


つなぎ目が不細工になったがご勘弁をる

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