宇和島の町の南方に、古城山(ふるしろやま)という丘がある。
ここには、戦国時代に亀が渕城があり、西園寺宣久(板島丸串城=宇和島
城主)の家来、薬師神伝左衛門尉親頼(やくしじんでんざえもんのじょうちかよ
り)(古書には薬師寺とある)の居城であって、板島丸串城の属城であった。以
前はここが来村西園寺氏の本城であったが、天正三年(1575)丸串城が本城
となったので、古城と言うようになった。
昔、この城の西側は海であった。来村川が長堀を流れて神田川に合流して海
に入っていた。のち来村川の流れを暗渕(くらふち)から古城の西につけかえ、
その跡へ堀を設けた。堀は長堀と言って、今日もその名が残っている。
薬師神伝左衛門尉親頼の墓は、現在堀部公園にある。また、親頼は親頼神社と
して、宮下の尾串森に明治四十年頃まで祀られていた。
戦国時代、宇和島から津島町に至る間は、宇和島にとって重要な所で、各所に小さな城や砦があっ
て守りを固めていた。来応寺の上には「剣が城」があり、「麻小笥(おこげ)城」、「福の森城」が番城小
学校東側の山にあり、保田には「赤烏帽子城」(紀伊守友岡慶則の居城)、今は友岡様といって除疫
の祈願で有名である。 また、その南に「長松城」・「龍尾城」があり、祝森には「亀城」・「秀松城」・
「かいの森城」がある。
面白いことには、地元の人は「かいの森城」のことを「城」といい、「秀松城」のことを「陣」と言っている。
また、来村地区には並松(なんまつ)といって大きな松が道路に並んで植えてあった。それは藩政時
代いざという時に、これを切り倒して敵を防ぐためのものであったという。
宇和島の城北や高光方面は、地理的に見て交通の要衝にあたり、度々土佐の長宗我部氏や一條氏、
また、豊後の大友氏の侵略の脅威にさらされたところである。それで城跡の数もかなりの数に及んでい
るところから見ても、西園寺氏にとって戦略上重要な地点であったことがうかがえる。
まず、和霊神社裏の山には「鎌屋城」(奥の城ともいう)があり、「板島城」は城北中学校の北側の山で、
板島志摩守の居城。屋敷は中間(なかいだ=伊吹町)の庄屋の屋敷とのことである。「草野城」は八幡
神社の上で、今の石鎚様のところであるが城主は不明。「高麗城」は柿原に、「鎧(よろい)城」は伊吹町
の東にあったがいずれも城主は不明である。
高光方面の根無川には通称丸山というところに赤松肥前守の居城「夏くら城」がある。家藤監物の本
城は家藤の「夏秋城」(一名道免城)であり、根無川の「糠森(ぬかもり)城」は出城である。柳田弾正の
「柳田城」、程岡五郎丸の「程岡城」、森岡数馬の「森岡城」がともに徳の森にあった。
申生田(さろうだ)口に薬師寺伊賀守の「中次城」、東方光満の別田山には「烏が泊(からすがとまり)
城」があり別田太郎左衛門の居城であった。
別田山に草刈りに行った人の話によると、今でも古瓦のかけらを見つけ、城の跡をしのぶ由である。
しかし、四百年の歳月を経た今日、これらの諸城跡は、当時の名残をとどめるものはほとんどない。
【宇和島の自然と文化】より引用
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||