山家清兵衛公頼

久保盛丸著「南豫史」より抜粋  (鹽谷は塩谷と直す)

父は清左衛門公俊と言う。姓は源氏出羽山形城主最上修理太夫義家の臣であったが、義家の女伊達輝宗に嫁し、公俊亦君女の随人として茲の初めて伊達家の家臣となったのである。
秀宗宇和島入部の時公頼は政宗の眼識に依て老職に任ぜられ秀宗が一身を懇嘱されたので公頼は粉骨砕身主君の補佐と政治の得失とに腐心した。
君主は伏見の栄華に狎(な)れ、士は大藩の夢さめず驕奢に耽り、懦弱に陥り易くして一人の起つて此等の弊風を矯正し、身を挺して経國の任に膺らむとするのも無く、加ふるに富田氏(前宇和島領主)改易の後とて民力窮乏、財源枯渇に瀕し、元亀天正の余波未だ全く収らず、内憂外患交々にいたらむとする時であるから、山家が苦心は一通りではなかった。
公頼の熱誠な執政に庶民は殆んど再生の恩をなして、よき領主を戴いた、有難い家老を得たと欣喜雀躍し、政令は領中に普いたので、百姓は生神様と称へて感謝した。
士風の柔弱を慨(なげ)いて之が鼓吹に努め、殊に兵器の整理に尽瘁(じんすい)し傍ら大に勤倹を励して功績漸く挙った時に、國老櫻田玄蕃は格式山家の上に位しながら、政権悉く公頼に帰し、主君の寵遇、民間における勢力悉く自れの上に在るを常に快しとせず、漸く嫉妬の念を生じ排斥につとめた。
元和四年正月三日、政事初め式に櫻田は山家と争論をして敗れ、爾来山家を忌む事甚しく、遂に讒言を構へるに至った。

秀宗は父の眼識を以て顧問たらしめられた山家であるから常に畏服して居たが、その憚りは漸く転じて公頼を懌ばざるに至ったのも、気概の薄弱な秀宗としては有りがちのことであらう。
是に於いて櫻田一味の面々は巧みに讒言を弄して、君主の聡明を蔽(おお)ひ交々讒誣し、公頼の譴(せめ)を蒙って閉門するに乗じ、遂に斬奸状を作って六月晦日の夜、城内丸之内の山家邸に乱入し清兵衛、二男治部、三男丹治を斬った。

説に依ると、己上源藏、八尾藤藏、三好兵馬、鈴木軍治等四十二人闖入して、公頼の臥所を襲ひ、蚊帳の四隅を切って斬殺したと云ふ。

此の時山家の下郎に熊藏と云ふ者があった。四男の美濃を抱いて百方遁路を索めたが警戒厳しく遂に幼児を抱いて屋後の井戸に身を投じ奸徒の毒刃をさけた、此井戸今に存し幼児を奉祀してある丸之内和霊神社の神殿の床にある。
隣辺の塩野谷氏(ママ)は山家の親類である。変を聞き裡門から趨せ付けたが亦奸徒の為に斬られた。

北町の土居勘左衛門は公頼の組下足軽で櫻田等の陰謀を知り、一人心を痛めたが変を聞くや屋敷へ駆つけ、偶然日振島から風雨を冒してやって来た清家久左衛門、裡町の伊方屋仁左衛門等と丸穂村の妙長山へ遺骸を運むだが、住僧は櫻田を憚って承知せぬ、止むを得ず正眼院の西の谷葎(むぐら)茂れる裡に納め、天祥院殿心渓常凉大居士と謚った。
享年實に四十有二、 玉林宗清禅定門 山家治郎 享年十九歳、 槿窓壽顔禅定門 山家丹治 享年十四歳、 宗泡童子 山家美濃 享年九歳、 透徹沼關禅定門 塩谷内匠 享年不詳、 一廟宗栄禅定門 塩谷帯刀 享年十九歳、 歓友宗電禅定門 同勘太郎 享年十四歳 金剛山西の谷和霊廟に奉祀してあるのは此の七人である。

夫人高女は母夫人と共に三歳の末野と云ふ娘を連れて清兵衛の変ある前、桧皮の森の伊方屋が隠宅に寓居したが変を聞き奸徒の捜索を避けて、知行所吉野生村蕨生に落ち、末野の乳母の生田方へ潜んだ。
七月十三日夫人及母夫人の両女は清兵衛が初盆供養すべしと此の村の法林寺を頼みて心ばかりの法会を営み、五里に余る山路を辿って正眼院の西の谷に来り、心ゆくばかり追悼したが、其の不在中幼女及び乳母の生田氏は奸徒一味の為めに殺害された。
両女性は此の地に居るの危険を思ひ、日振島の清家氏に潜む事数日、船の用意を整へ難を冒して仙台へ帰り、幾程もなく母夫人逝去し、夫人高女は再び一族の冥福を祈らむと土佐幡多郡六反地の山中に庵をむすび菩提を弔ひ、此の地に逝去あり。

明治十五年蕨生村に在った幼女及び乳母の墳墓を和霊廟境内に移し、廿七年三月十五日高木常女と云ふ夫人高女の碑を丸穂村法圓寺内に建て刻して
「此墳元在土州仁井田郷六反地村今移之於此者仍公頼氏初葬之故地也」と。

宇和島に於ける山家の血統は断絶したが家系は連綿とつづいて居る。
土居勘左衛門が山家清左衛門と改め山家を嗣いだと霊験記には載っている。相模小田原大久保出羽守家中山田典治、松山松平隠岐守家中山田四郎兵衛、山内九左衛門と云ふ人も公頼の後裔だと載って居るが、山家氏の系図に依ると、公頼の嫡男喜兵衛と云ふ人がある。此喜兵衛に三子があって養軒
(嫡女の養子)女(遠藤一水の妻)三子正蔵、此の正蔵の子に正太郎、忠太夫、女、平三郎、女の五人あり。

忠太夫は武田忠兵衛の養子となって二女をなした。長女は富田壱岐の養女となり佐藤新九郎に嫁して二男一女をあげた。三男平三郎頼堅、宇和島の山家家を継ぎ、次女は塙(はなわ)喜三郎に稼して二女をあげた。平三郎は早世した為めに山家は暫時中絶して居たが明和の頃藩主の特旨により新左衛門頼晴を以て山家を立てられた。頼晴は幼名六之助後傳五左衛門頼英と改め、隠居して道也と号した。清左衛門頼覚、佐織頼尋をへて当代に至ったと伝はって居る。

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