和霊騒動顛末記

初めに

 三代将軍 徳川家光のときから、参勤交代開始(無駄な出費をさせ、諸藩の経済を疲弊させることが目的)家格により規模の差はあるが見栄などで、多くて3千人、宇和島藩は四代村年のときに359人の記録がある。
参勤交代のほか、全国の道路河川改修工事、日光東照宮そのたの造営物をつくらせた。

 最も悲惨な例として「宝暦治水」がある。宝暦4年着手(1753)木曽川の三カ国(美濃、尾張、伊勢)八郡93か村、総延長27里(約108km)を薩摩藩に押し付けた。

 薩摩から794人 地元の工夫約2000人
 薩摩藩士の死者 84名 うち 憤死 53名

 総奉行 平田靭負(ゆきえ)は、幕府役人の工事完了の認可をみ届けてて切腹した。
 総工費 約40万両

さて宇和島は

 宇和島藩 宇和郡17郷 273か村 本高 十万2154石三斗8升6合

明治初年 太政官に対する報告では 領内総数 33253戸 総人口 169512人

     内訳  農民 2万9千301戸  男 78217人
                         女 73589人
                        計 151806人

         町民 1334戸       男 2232人
                       女 2088人
                       計 4320人

         士卒  1578戸      男 3379人
                        女 3334人
         その他 400戸      男 3635人
                        女 3069人

 全国260余の大名はことごとく貧乏であった。

 大きな理由は 1 政治的 2 自然的 3 産業経済的の三つがある。

 政治的 参勤交代、全国の道路河川改修工事 日光東照宮の造営など

 宇和島藩では秀宗入部の際父親政宗より借りた三万両の返済方法で困惑する。
 (この三万両はたんなる引っ越しの費用だけではなく、領地引き継いだ後年貢米を得るまでの家中
すべての運転資金に充てられたものと思われる)

この対応策として

提案その1 親子だから踏み倒せ。
提案その2 領民から寄付をもらえ(通常の年貢の上に、取り上げろ) 以上は共に却下

提案その3  1、2 ともに無謀な考えであり、政宗生存中は「隠居料」として毎年三万石を返済する。
という決断が山家清兵衛より下された。(これがまず藩の一部の人から反感をかうことになった)

 山家清兵衛は秀宗入部以前に宇和島に来て、産業などの現地調査をしている。

 宇和島藩が言いつけられた主な事業(時期はそれぞれ異なる)

 日光東照宮に一部造営、美濃・尾張・伊勢の河川改修。幕府学問所の新築、江戸城奥対面所改築、
江戸神田橋架橋、上野寛永寺山門建築、上野廟所改築 他

 工事費は最高で15,300両、最低でも8,000両 平均12,000両と言われている。
 これらはすべて「臨時出費」である。これ以外にも本来幕府のやるべきことにたいして各藩が肩代わ
りすることがたくさんあり、その結果、わいろの横行に拍車をかけた。

 元和6年 宇和島藩は大阪城の改修工事を言いつけられている。これが和霊騒動の一因か?。

 元和6年 正月から山家清兵衛、桜田玄蕃が交代で大阪城の石垣修理にでる。工事費は現地調達
だったらしい。苦心惨憺したが、工事は八割がた完成、石や資材は調達できたのでこの上はたいした
金はいるまい、と山家清兵衛は五月に帰った時に秀宗に告げた。

 ところが桜田玄蕃から秀宗に工事費工面の要望の文書が届く。
これに対し秀宗からの返書に

「清兵衛この地にて申し候らはば、大石くり石何れも調べ渡し候 併し今少し不明に候も米銀子 最早
要り候事はこれ有る問敷く申し候‥‥」

と桜田を叱責する文書を送っている。
 この書状により桜田玄蕃は武士としての面目をつぶされ、逆に山家清兵衛が公金横領をしているの
ではないかとの誤解を強くした。

 そもそも山家清兵衛は総奉行であり、政宗からは絶大な信頼をもたれ、伏見でお公家さんのように
育ったボンボンで世間知らずの秀宗の後見役として送った人物で、その期待にそうべく苦慮している
人間であった。かたや桜田玄蕃は侍大将で、軍事武芸以外には能力の無い人物であった。以前から
この二人は犬猿の仲であり、それぞれの下に派閥が形成されていたらしい。

 大阪城での工事の一件も山家清兵衛が公金を横領したので、桜田玄蕃には落ち度はないと思った
かねてより桜田の配下の中心人物になっていた清水茂兵衛は桜田の意向を受け、「清兵衛罪科三十
五か条書」を秀宗に提出した。

 これに対して、中立派であった重臣志賀右衛門、安藤所左衛門は山家清兵衛の潔白を信じ、秀宗
に提言をしたが、齢30の若輩藩主には通ぜず、山家清兵衛は蟄居を命じられた。清兵衛は何も言わ
ずおとなしく従ったと言う。

 そうして元和六年六月晦日(和霊宮記などでは二十九日説が多いが、この元和六年は四、五、と七、
八月は全て二十九日までで、六月だけ三十日まである。月の最後の日ということで、誤って二十九日
と伝えられているのではないだろうか)

数人の密命をおびた刺客が山家清兵衛宅を襲撃し、清兵衛はじめ、次男治朗(19歳)三男丹治(14歳)
四男美濃(9歳)の山家家の男、隣家の塩谷内匠、帯刀(19歳)次男勘太郎(14歳)ほか下僕二名を殺
害した。山家清兵衛の母、妻は無事避難したという。(一説では母は来ていなかったと言われる。また
42人の刺客がいたと言う説もあるがいくらなんでもそんなに多数が襲撃をすれば世間に知れ渡り一大
事である。人数は少ないほうが妥当だろう)
(また、当時、片方の主役と言われている桜田玄蕃は大坂にいて現場にはいなかった=おやじギャグ(^_^;)

 一部では切腹説が流布しているが、切腹の場合は、まず罪状を明らかにしたうえで処分すべきであろ
う。秀宗が辛くも取りつぶしの危機を逃れられたのは、暗殺という手段の成敗をとったためではないだろ
うか。
 
 さて、この話が当時江戸にいた父親の伊達政宗の耳に入ると、政宗は烈火のごとく怒ったという。

「父命により補佐申しつけたる臣清兵衛儀何の過ち無き家中の者私怨により討ち果たし秀宗之を不問
に付して悠々たるは父を蔑如せる罪大也、到底藩を統ふまぢき事以って公儀に伺ひ宇和島藩改易願
ひ達したるに付き追て沙汰あるまで吃度謹慎すべき事」


 宇和島藩は仙台藩の支藩ではなく一つの大名家であり、いわば内政干渉のようなことなど不要と強
がりをみせていたが、思わぬ怒りをうけうろたえてしまったらしい。

伊達政宗は幕府に対して宇和島藩取りつぶしの書状を提出したらしい。
 幕府要職にいた板倉周防、土井大炊頭は伊達政宗からの書状に当惑し、将軍には取り次がなかっ
たらしく、仙台伊達家は忠臣であり、また、個人的一感情で十万石の改易を計ることは出来ないとの考
えであった。やがて伊達政宗の感情が収まるのを待って、内藤外記、柳生又衛門を使者に出し

「公儀格別の厚意で有難くお取り下げなされ」

と願書を差し戻した。

参考・津村寿夫「宇和島藩経済史」(出典は兵頭賢一氏のものらしい)

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