明治35年、福原の藤原石太郎、石田米次郎などが伊予から勧請し、向山に社殿を造営して以来例祭には近郊近在の人たちが参詣するようになり、沿道から社地まで露天商がならび、うちわ片手に浴衣がけという老若男女が山の上まで続いていたし、部落では家々に祭提灯をつるして親戚知人を招き、一夜を楽しく明かす習慣もあったのである。
また日比村でも明治の中ごろに宇和島から和霊神社の分霊を勧請して祭っていたが、この方は社殿もなく、小さなほこらに祀り、新地といわれる色街の中でお祭りが行われていた。
港であり上り下りの船人も多い土地柄でもあって、旧暦6月23日の夜、紅灯の中で行われるこの祭りは、面白い習慣となっていたが、今はもうまったく行われていない。
〜中略〜
元和6年(1620)6月23日(ママ)の深夜、蚊帳の中で寝ていた公頼は突然刺客におそわれたの
である。武芸のたしなみも深い公頼ではあったが、暗がりではあり、しかも公頼の腕前を知る刺客は、まず蚊帳の吊手を切り落として蚊帳をかぶせた。蚊帳にからまれた公頼は刀を使うこともできず、「このかやさえなければ」、と恨みをのんで非業の死をとげたのであった。
それから何年かたった後、宇和島の百姓町人たちの中から公頼の徳を慕う声がおこり、その霊を祀って建立したのが和霊神社であり、その命日である6月23日(ママ)の夜宇和島では、一晩蚊帳をつらないでお祭りをしていたのである。各地の和霊祭りもこれを伝承して、この晩蚊帳を吊らないのがこの祭りの習俗となっている。
【管理人注】祭礼が23日に行われているために、命日が23日と伝わったのではないだろうか。
宇和島でも命日には昔は蚊帳を吊らないという風習が残っていたようだが、最近は祭りそのものがショーと化し、本来の祭神をお祀りするという目的から乖離しているようだ。
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