和霊神社異聞



 一般的に、和霊様は山家清兵衛公の怨霊をおさめる為の神社、だというように云われて居るが、
木村鷹太郎の「世界的研究に基ける日本古代史」によれば次のような説を延べている。

 宇和島に和霊神社あり南伊予に於いて異常の信仰を有し、年々の祭礼には参詣者雲の如く来集し甚だしきは海を隔てて豊後方面よりも来り、宇和島港は船を以て充ち各船盛に無数の旗を立て太鼓を打ち歎然欣然たり云々、然りと雖此の如き異常の信仰ある神社の祭神如何を問はヾ舊来の伝説の言ふ所に拠れば伊達秀宗の政を失せし時奸臣の忌む所となり殺される忠臣山家公頼なる者を祭れるなりと而して其言ふ所多くは奇怪千万にして殆ど識者の信ずるべき事に非らざる也云々。
今伝説の山家公頼の忠義なるものを聞くに何等の事あるなく、只普通の常行のみ、決して神に祭らるる程の事に非ず、其如きの小忠を以て此くも異常の崇敬を得べしとは信ずべからざるなり、楠公の大忠を以てするも其人民より受くる所の崇敬祭礼に至ては到底和霊神社に及ばざるなり。
若し宇和島而も伊達家の小忠臣が自藩以外の他国人民より崇敬せらるる如きを見るも此神社の伊達家の忠臣を祭れるに非ざるを察するに足る素より忠義と謂はヾ大小を問はず之を尊敬すべしと雖も尊敬と崇拝とは自ずから性質を異にす、
山家伝説の如き忠義は天下掃き棄つる程數多之有り決して崇拝を起こすべき性質のものに非ず、若し夫れ山家の亡霊が妖怪変化の所業あり、敵人に祟りしと謂ふが如きに至っては寧ろこれ神の特性としての下等なるを示すものなり。  中略

宜しく和霊神社の人民一般より受け玉ふ所の崇敬の性質を見るべし、決して忠義云々の観念に対するものに非ずして極めて広範なる神徳寧ろ商業航海強力の観念に対する崇敬なるを見る、元来祭神には二種あり、一は神生まれの神なり、他は人間より成り上れる神なり、 中略

【ラテン語強力をワレイと云ふ則ち和霊にして強力の神ヘラクレースを祭る従来の論者果たして和霊の意義を解し得る者あるか】中略 其最も顕著なるものは此神社の随神門の天上の大羅針盤なりとす、伝説の山家何ぞ磁針に縁あらん是祭神の通商航海の神たるを示す所の証拠なりと謂ふべし、 略
伊達家の一臣たり又た人間たりし山家公頼なる者に非るを知るなり、宇和島人若し人間たる山家公頼を祭らんと欲せば別に是を忠臣として祭るも可なり、不当の崇敬を不当の神に払ふは正当の神に対して不敬なり、此神は塩釜神社と同一神なり、故に和霊社は鎌江の釜神社の境内にありしと言ひ伝ふ、大阪の御霊神社神仏混合にては摩利子天と同一の神なり又國常立之神なり。

要約すると、和霊神社に祭られて居るのは、山家清兵衛と言われているが、本当はもっと大きな別な神である。一人の人間を祭っているにしては参拝者が西日本各地から集まっていることはおかしい。ここでは記載していないが、新田義貞、楠正成など人間から神になっても宗教的崇拝をされるべきものではない、菅原道真が神となっているのも彼を祭神として使っているだけで本来の神は伊■那岐命なのであり、怨霊など人に祟るレベルの低い人間は神にはなれない。

と、大胆に、和霊信仰の対象が山家清兵衛であることを否定している。(引用は久保盛丸著「南豫史」から)
是も一つの説として記しておく。

ただ、この説に対しては私なりの反論を延べておく。

木村鷹太郎が表した時代は、皇国史観全盛の時代で、天皇は神であり、世界の中心の存在であった。天皇家を中心にした神の世界と、土俗的な俗人を神と崇めることとの区切りをつける必要があったのではないだろうか。
同じ例として菅原道真の天満神宮が挙げられているが、怨霊を鎮めるため神に祭る事は、神の世界そのものを侮蔑するものである、というような記述も見られる。

また、航海云々、という事にこだわっているが、山家清兵衛が暗殺された夜、奇しくも彼と懇意であった日振島庄屋清家九左衛門は嵐をついて宇和島の町に来ていた。急を聞き、公頼組下足軽の北町に住む土居勘左衛門、裡町の伊方屋仁左衛門等と共に、清兵衛亡骸を西の谷に葬ったのも彼であった。その事から、清兵衛と日振島=海との絆が一層深まったのではないだろうか。和霊信仰の伝播は、願い事を叶えてくれる、という信仰から漁民を通し西日本各地に広まったのであろう。山家清兵衛と漁業・海上安全の関係については、これらを考えればさほど不思議ではないと思う。

私はここで信仰についてとやかく言うつもりはないが、山家暗殺以後の宇和島における、庶民の彼に対する信頼感、敬愛感と、様々な不吉な出来事から発生したものだと素直に考える。そして無念の最後を遂げた山家清兵衛の非物質的存在がその後の事象を生み出したのではないだろうか。私は迷信家でもなければ、現在の科学で解明できない物をすべて、迷信と否定する気はない。今の科学で判らない事はいくらでもあると思う。

もし、「われい」信仰が山家個人から発したものでなければ、少なくとも、彼が暗殺された元和六年六月三十日以前に当地に、それの存在を裏付ける何かがなければならないであろうが、木村鷹太郎氏はその辺りについては全くふれていない。通常従来の説に異論を唱え自説を証明する為には、必ずそれを裏付ける実証が必要だと思う。仮にその確率が1%の存在であったとしても、ゼロではない。それが事実であれば、その1%はやがて99%にふくらんでいくものである。

話が横道にそれるが、別なサイトで、私が和霊神社の説明をして、長らく櫻田、山家の私的感情からの抗争であったと言われていたが、近年になって書状が発見され、上意討ちである事が判明した、と書いていたら、「それは昔からそう(上意討ち)言われていた、何も新しい事実ではない」、という内容のメールをB氏から頂いた。しかしB氏の言われる説を裏付けるものは、何一つない。
ご本人はお気づきではないらしい。地球は自分を中心に回っていると信じ込んで入り典型的なタイプ、いわば全く個人的な史観でしかない。
仙台藩四代目伊達綱村から宇和島二代藩主伊達宗利に宛てた書状が宇和島伊達家の古文書の中から発見されたのは、昭和も後期40年前後だったように思う。

これが発見された為に、その真相が闇の中から浮かび出たのである。勿論、櫻田が山家暗殺に至る過程では、秀宗に対し、山家を追い落とそうとする為の讒言、策略工作があったことは伝えられてはいたが、上意討ちを証明するものは何一つなかった。
噂と真相、などと言うと雑誌の題のようだが、噂を裏付けるものが出て、それが真相に近づくのである。噂を真相だと錯覚すると、全く泥沼に落ち込むのである。何を根拠に言われたのか不明だがB氏はその後のメールで「赤染様」は「宇和津彦神社」よりも歴史が古いと書いてきた。こうなっては、もはや歴史ではなく、主観主義による歪曲史になってしまう。

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